精神現象学上 (ちくま学芸文庫)
本, G.W.F.ヘーゲル
精神現象学上 (ちくま学芸文庫) は G.W.F.ヘーゲル によって作成されました 各コピー1595で販売されました. Le livre publié par 筑摩書房 (2018/12/10). Il contient 535 ページ pages et classé dans le genre genre. Ce livre a une bonne réponse du lecteur, il a la cote 4.6 des lecteurs 5. Inscrivez-vous maintenant pour accéder à des milliers de livres disponibles pour téléchargement gratuit. L'inscription était gratuite.
平均的な顧客フィードバック : 4.6 5つ星のうち(5人の読者)
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精神現象学上 (ちくま学芸文庫)電子ブックのダウンロード - 感覚的経験という最も身近な段階から、数知れぬ弁証法的過程を経て、最高次の「絶対知」へと至るまで──。精神のこの遍歴を壮大なスケールで描き出し、哲学史上、この上なく難解かつ極めて重要な書物として、不動の地位を築いてきた『精神現象学』。我が国でも数多くの翻訳がなされてきたが、本書は、流麗ながら、かつてない平明な訳文により、ヘーゲルの晦渋な世界へと読者をやさしく誘う。同時に、主要な版すべてを照合しつつ訳出された本書は、それら四つの原典との頁対応も示し、原文を参照する一助となす。今後のヘーゲル読解に必携の画期的翻訳、文庫オリジナルでついに刊行。【※本電子書籍版には、紙書籍版本文の上欄、下欄に付した4つの原典(グロックナー版全集第二巻、ホフマイスター版、ズールカンプ版全集第三巻および大全集版〔アカデミー版〕)とのページ対応は含まれません。】以下は、精神現象学上 (ちくま学芸文庫)に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
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◆事前予約していたのになぜか発売日に届かず、レビューを投稿したのに数日経っても反映されず、非常に困ったものだが、おかげで多少時間をかけて検討することになってしまったので、それはよかった。最終的な結論は本書はおすすめの翻訳である。◆私は金子訳を踏襲した牧野訳を基準に比較することが多いが、熊野訳はスムースな日本語になっており、特にその印象は悪名高い後半の「精神」章以降で発揮されているように思われた(下巻の話ではあるが)。私は牧野のやり方を気に入っているが、それを相対化できる翻訳になっていると思った。しかし廣松氏への反動で妙なひらき方をしたり妙な用字用語をするのには未だに慣れない。その点では読みにくい。「光の神ホロス」(den Horos)などのやばい訳が登場しないのはよかった。◆読みやすさの点では、そのままの段落構造を維持せず切り分けてよかったのではないか。長文を切り分けるような翻訳をしっかりされているので、余計そう思った。原文にない段落を追加するのは「学問的正確さ」を毀損するだろうか。金子訳同様に原文の段落を指示しているからほとんど問題ないと思う。牧野訳では段落を分けている。◆本書では本文内補足が少し、訳注がごくわずか、あとがきも下巻に4ページ程度と、そちら方面はかなり手薄だ。これをフォローするために入っているのが原典には存在しない内容上の小見出しだが、これはかなり素晴らしい。「哲学書に『序文』は必要か?」と言われれば、当否を考えられる(答えはイエス)。ただ、それでも訳注もっと欲しかったな。◆本書を手にとって一番思ったのは、ヘーゲルは一人で読むものではないということだ。現象学が多様な全訳に恵まれていることを感謝するばかりである。複数の和訳を比較すると日本語のみでもかなり分かってくる(独語は参照したほうがいいが)。正直既訳には問題訳も多いが参考にはなるし、でかい仕事へのリスペクトが年々湧いてくる。(自然的意識のみちゆきと”宿駅”)◆ところでチェシャ猫さんのレビューに思うところがあったので、学識のない一市民の立場で恐縮だが言及したいと思う。下巻レビューで氏がつけてくれた文章にも同内容のコメントをしてある。氏の指摘の「自然的意識」は序論第二段落付近だが、ここは牧野によると序論の中でもっとも解釈が難しいポイントであり、そこが今回言及されたのは興味深いと思った。◆さて氏は滝氏の指摘にしたがって、キリストの逸話を想定し「宿駅」という概念をもう少し「札所」のように扱うべきだと述べている(私は滝氏の議論を知らないが)。この根拠はこの道行きが「魂」が「精神」へ「浄化/純化」されていく道筋だとされているからだろう。私は踏み込まずとも結局はよいのではないかと思う。(が、下巻レビューでの意見に従い、「駅」のキリスト的含意を注釈では言及するくらいの必要性があることは、説得された。)◆(私が賛成する)牧野の解釈に従えば、この巡礼の例はヘーゲルにとって低い棄却されるべき例だ。第一段落末尾で、シェリングやフィヒテを批判しながら現象知のありかたを述べ、現象知は現象という非本質的な悪しき形式に則っているがゆえに、自分は「真」ではないのに、あたかも「真」であるかのようにあらかじめ定められた順路としての「宿駅」を(すんなり)とめぐって純化されると思いこんでいる、ということをヘーゲルは述べている。こう述べていると取らないと前後でかなり謎めいたちぐはぐなことを言っていることになる。正直、熊野訳は別にこの辺のことをあまり考慮していない気がする。◆私見だが、ヘーゲルの言葉には二重の側面がある。「宿駅」の話の直後に「懐疑」が問題になるわけが、そこでは「普通の懐疑」と「徹底した懐疑主義」が問題になる。前者は一瞬問題になるが最終的には解消されるもので、ヘーゲルは自分たちは後者である、と述べるわけだが、ということはラディカルに対応させるなら後者の問いは<解消されない>ものなのかとも思われるが、そうではなく最終的に解消される。では何が違うのかというと、通常の懐疑というのは要は懐疑のフリであって、本当の懐疑の上で懐疑を解消しなければならないということである。では本当の懐疑とは何かというと「絶望のみち」を通ることである。◆ここからが重要だが、宿駅の話には「絶望」はあるのだろうか?あると考えれば、予め知られた「絶望」は本当に絶望なのだろうか。キリストにとっては受難は絶望かもしれないが、それは事前に想定された話だったのか。また、それを事後的に読む私たちにとっては絶望なのだろうか。話が混乱するので図式的に要約すると、これは、A地点から(精神の全てを知るようなチェックポイントたちを)いろいろめぐってB地点に到達する(絶望を知らない)物語があるとして、それが真の精神の上昇の物語であるとするならば、事後的に(実は)それはα地点からβ地点という(絶望を知る)別な物語のなりゆきだったのだ、ということにされるような物語にならざるを得ないということであって、これはイエスの人間と神という属性の二重性からも類推されるし、生成史と発達史が同居するというヘーゲル的二重性を踏まえても、合理的な解釈に思われる。◆そう考えたときに、精神の「札所」と書いてしまうのは先取りではないか。結局は予め定められたものなのに、これからその魂が参るべき道標という感じが薄れる(魂が何個かにもよるのだが……)。いうなれば生きている人間は別に自らと無縁な札所を巡るいわれなどないからだ。その精神が「絶望」を経由してゴールにたどり着いたときそれは初めて「予め定められた宿駅」だったことがわかり、同時に「札所」になる、といったようなものである。しかし、駅であれば我々も日々使用するものだから、現世の概念レベルに即した言葉として「駅」を使うことはむしろそこそこ適切に思われたのだった。
によって G.W.F.ヘーゲル
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